80年代くらいからずっと、民放バラエティ番組の一つの定型として「痛い個性を嗤う」というスキームがありました。おそらくテレビ局ごとの色の違いも大きいので、この定型が一般的なものだったとは言えませんが、芸人が「痛い個性」をパロディ的に誇張して演じて、「こいつ勘違いしてんなあ」というのをスタッフ笑い的な視点から笑う、というパターンはここ20年くらいずっとありましたよね。
逆に言えば笑われる対象としての「痛い個性」が必要であったし、マスメディアはマッチポンプ的に「痛い個性(あるいは将来において痛いとみなされる個性)」を作ってきたわけです。笑われる人がいるからこそ、笑う人もいたし、その騙しあいゲームこそが、コミュニティの漠然とした結束(「俺たちは分かっている側の人間だよな!」)を醸造してきたわけです。だから逆説的には、「痛い個性」は笑われるために必要とされてきたわけです。
この構図はGMがT型フォードを駆逐した1927年以来の、消費社会の構図でもあるわけです。消費社会はまずは、「平凡なものに対する差異化」を仕掛けますが、その次には更に「(一昔前の)差異化に対する、(新しい)差異化」を仕掛ける必用があるわけです。そうなると、「一世代前のGMに乗ってる奴」というレベルの、笑えるレベルの「痛い個性」がいてくれないと、新しい個性が引き立たないわけですね。
ところが「痛い個性」の恥ずかしさにみんなが気づいてしまう(情報化社会による透明化によって)と、消費社会の差異化ゲームが駆動されなくなってしまいます。痛い奴がいてくれないと、痛くない奴が差異化できなくなってしまうわけです。いや、今でもローカルなコミュニティには、それぞれの固有の文脈における「痛い奴」はいるわけですが、全ムラ同時の「痛くない○○」販促キャンペーンをやることはできなくなってしまうわけです。
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